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中途半端に開けた窓から柔らかな陽光がさしている。旭日と書くには些か優しすぎる朝の景色。部屋に澱む古い空気を、息の長い風が洗い流して行くのを見て「ああもういよいよ晩夏も暮れる」と思った。思っておいてナンだけど、晩夏って暮れるものなのかしら?
足早に9月が去り、働き始めて半年が経過した。新しい価値観を自分に撃ち込み続ける生活もそろそろ終わる。
次にやらなくてはいけないことは、足場を固めることだ。これは急いでやることよりも丁寧にやることを優先しないといけない。残す事にしたものを、最適な形で生活に生やして行こう。
以下は、自分自身についてまた新たに考えた事。大量に情報をインプットして、そこから選んだもので自分を縁取る方法、悩んだ私が破れかぶれに取ったアプローチだけど、もう二度とごめんだなと思う。長かったし、くたびれた。
時間は有限だ、その中で自分の感性や好きなものを絶対的に信じること。価値観が氾濫する世界の只中で、自分の足で地面を踏みしめる事。
でもそれは、人の話を聞かないって事でもなくて。今の自分にはそれが見えるようになっていて、そこが昔との違いだから、そこは大切にしたい。
やっていこう、いっこいっこ大切に
結局、自宅が最高すぎて外に出る必要がなくなってしまうのが全ての根源な気がしてくるけど、まあたまにはね pic.twitter.com/wgmsF4d8YL
— セツナ (@beat_set) 2017年9月26日
会社の行き帰りに電車やバスを待つ、その10分とか15分とかの時間に、いつも自分の生き方を省みるよ。うまく適応できない懺悔の時間、あるいは、いろんな感情の一つ一つを展開しては嚥下する時間。
— セツナ (@beat_set) 2017年9月26日
喉元の時間、と呼んでいるその時間を祈りに充てて、帰宅してしまえば後は一人で気儘に楽しめるのだから、まあ最近の自分が持っている問題なんてその程度だよ。良くも悪くも、結局大したこと無いのよね
— セツナ (@beat_set) 2017年9月26日
自分について考える時、まるでマッキンタイヤの忠実なモデルみたいだなと思う事がある
— セツナ (@beat_set) 2017年9月26日
物語の語り手は、それが生きられていた間は無かった秩序を回顧的に付与する。だから真実の物語などない、とする向きと、それ自体の抱える自己矛盾と。そこまで包括した上で、それでも話したかったんだろうなと思う。彼は
— セツナ (@beat_set) 2017年9月26日
最近読んでる実践理性批判、どれぐらい正確に中身を汲めているか謎って事を差し引いても、2年前と感触が違い過ぎる
— セツナ (@beat_set) 2017年9月26日
場を用意せねば、メリットを叫ばなければ、感情的な正しさを見せつけなければ、人の関係は成立しないものとする向きがあり、なんというか、そんなエコでクリーンな世界に、少しばかり飽いてきている。たぶんね
— セツナ (@beat_set) 2017年9月26日
なんかこう、誰もが目的地とするステージがあって、そこへ向けて作戦を立てて勝ちに行くみたいな生活に適応しすぎていて、その文脈から離れた瞬間「お前は既に許されていて、一体今何と戦っているつもりなんだ」という言葉が追いかけてくる
— セツナ (@beat_set) 2017年9月27日
時間的に身軽になろうと思って、文化・様式・思想のパージを行なったけど、どこかの段階で内面化したらしい肝心のユニットが特定できておらず、バランスが著しく崩れる場合がある
— セツナ (@beat_set) 2017年9月27日
こういう、どうでも良いところで頑張るのを一旦やめてみて、両端を知った上でバランスを取ろう。
— セツナ (@beat_set) 2017年9月27日
数を減らして、その分止むを得ず雑になってしまう、っていうパターンをやめよう。いつも機嫌の良い私で、丁寧に取り組んで行くよ。
— セツナ (@beat_set) 2017年9月27日
チュートリアルはおしまい。これからはコンセプトを考えないといけないんだな。自分の感性や好きなものを絶対的に信じること。
— セツナ (@beat_set) 2017年9月27日