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Good morning my dream.

ロンリー・ハートと不思議のこと

アンソン・ハンター青年を描写するための唯一の方法は、彼を一種の外国人と見なして接近することであり、僕自身の物の見方にしっかりとしがみついていることである。ひとたび彼の見方を受け入れたりしたら、その瞬間僕は道を見失ってしまう。そして僕は陳腐な映画なみのものしかあなたに示すことができなくなってしまうだろう。

 

私の初めての海外渡航は、うっかり者の家族に忘れ物を届けに行くというものだった。チケットは家の人が完璧に手配してくれていて、私の仕事はと言うと、頼まれ物の入った荷物と共に飛行機に乗るだけという、最近あった中で一番気楽なミッションでもあった。JFK国際空港から関西国際空港まで12時間と少し。現代社会を生きる者としては、こういった時間はなかなか貴重だ。残り少ないイレギュラー・タイムを楽しんでゆこう。

  

ニューヨークに行けという指示が出た時、私は駅から自宅への道を歩いていた。その日はちょうどクリスマスで、飲みに行った帰りに程良い酩酊感と咀嚼しきれない感傷で胸をいっぱいにして……つまり、(味付け程度に不安があるものの)概ねご機嫌な状態でいた時に海外行きの指示にぶち当り、自身に射す微かな翳りを整理しきらないまま旅支度をする運びとなった。そんな状況下で、「もしかしたら日本語が恋しくなるかも」と咄嗟に鞄に忍ばせたのが、この「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」だ。

 

結局、アメリカの滞在時間はたったの24時間で、日本語が恋しくなるどころか、あまりの目まぐるしさに日本を思い出す事すら無かった訳だけれども。しかし、このタイミングで彼のセンチメンタルな輪郭に触れる機会があったのは良いタイミングだったと言う他ない。何より…人の美と痴の両方に思いを馳せ、そしてそれを自分自身の生きかたに還元する良い機会に恵まれた。

 

折角だから、ここではその話をしようと思う。

 

 

F・スコット・フィッツジェラルド。多分「グレートギャッツビーの作者」と伝えるとピンとくる人が多いように思う。彼はその44年の生涯の中で、派手な生活費を稼ぎ出すために比較的多くの小説を遺しているのだけれど、ひとたびその文章に触れば彼の表現に対する生真面目さを感じ取ることができる(と、後半に関しては村上春樹が書いている)。文章の良し悪しは原著を当たっていないからともかくとして、近頃ずっと表現に悩んでいる私にとって、確かにタイムリーなモチーフが散りばめてあった。

それは、フィッツジェラルド自体がそうなのか、媒体としての村上春樹がそうなのか、厳密にはよく分からない所なのだけれど、生き方について考えるという営みからするとその部分はどうであれ特に問題がないと言えるだろう。

 

任意の表現媒体……本でも映画でも絵画でも同じことなんだけれど、感想を書く時にいつも考えるのは、ささめく様に発生する感想のうち「どれを拾い上げて増幅すると有為な意味の連なりになりうるだろう」という事かもしれない。

今回の場合、本の内は大きく二部構成になっていて、前半に彼の伝記が、後半には彼の短編作品が収録されている。そのため前半からひとつ、後半からひとつ拾い上げてくるのがちょうど良いかな。

 

前半からは「夜はやさし」のエピソードについて話したい。

”モチーフがないと描けない”とあちこちで言われている通り、彼の小説には必ず”モデル”があるらしい。その事から逆算して眺めると、グレートギャッツビーから9年、彼と彼を取り巻く世界には大きな変更があった事が伺える。そこで年表を繰るとこうだ、お祭り騒ぎのジャズ・エイジは去り、妻のゼルダは精神が不安定。背景としてのアメリカは、1929年の大不況から立ち直っていないーー。

楽園、ギャッツビーとくる中で、彼が遠くに眺めていた退廃そのものがふわりと舞い降りてきた、そんな印象を受ける。

二十年代のフィッツジェラルドの作品を支配しているのが陶酔の中でふと感じる「終わりの予感」のせつなさだとしたら、『夜はやさし』はその終わりに行き着いてしまった後を描く小説だ。フィッツジェラルドの文章は登場人物たち、特に主人公の精神科医ディック・ダイヴァーが若さや希望を失い、ゆるゆると退廃的に滅んでいく様子を、あきらめに似た優しさで包み込んでいる。ぷつりと糸が切れた後の、解放感とはまた違う気怠さと、季節外れのリゾートで一人、誰もいない海をたゆたっているような雰囲気。この虚無的な甘さとつかみどころのなさは、フィッツジェラルドの作品の中でも『夜はやさし』独自のものだ。

 

曰く、「夜はやさし」は三部わけのオリジナル版と、五部わけのカウリー版の二つのエディションがあるらしい。私が最初にこの話を読んだのは中学生の時で、版がどちらのものかは分からない。 

ただ、1951年にフィッツジェラルドの指示を受けて編纂し直した文芸評論家のマルカム・カウリーは以下のように零したそうな。

作者にとっての決定版が即ち読者にとっての最良の版であるのか、と言う疑問は残った。おそらく私がその最初の形を愛していたせいだろうが、(彼の指示に従って編纂をしなおす)決心をするにはずいぶん時間がかかってしまった

表現物と、作り手達の乖離は別に小説に限って起こるわけではない。任意の表現物全てに対して等しくその現象は訪れる。私がいる機械設計の業界では最近やたらと 体験にこだわる文化が持て囃されているけれど、本来の構造はこちらの順序の方が”綺麗に描けて”いると思う。小説でも、音楽でも、絵画でも、当然機械設計だって、”結果的にそうある”と言う方が美しい。ともすれば、人間そのものだって他人の前では一つの空間であり、意味であり、作品に過ぎないのかもしれず、本人の意思とは何ら関係なく解釈され、同時に”結果的にそうある”物語である事を望まれている。

 

そういえば、これは完全に余談だけれど、ニューヨーカーという雑誌のライターが描いたポートレートを読んだ記憶がある。「Living Well Is the Best Revenge」というタイトルの本で、内容は何てことないスケッチだったけれど、いじめを経験した後の自分、つまり中学生時代の自分にとって、タイトルが胸にくるフレーズだった事を覚えている。(そして少なからず、現在の自分の拗らせ方に影響を及ぼしていると感じる)

彼の言う「信仰の告白」の本質がどんな物だったのか確かめる術はないけれど、私の思っている構造であっているとしたら、何と言うかそれは「随分と思い切った告白だな」と思わずにはいられない。そして、別の場所で村上春樹が「信仰の告白」について、「決して一流の作家が目指すものではない」と表現していた事についても注目しておきたい。その時の村上春樹の年齢が、今の私にはすごく気になっている。

 

「いまここ」と「これから」と。

この問題に直面した時、おそらく我々はその辺りの順位付けについて問われる事になるんじゃないか?

 

 

 

さて、後半からは「リッチボーイ」という短編について。

フィッツジェラルドは拗らせている、もうこれは否定しようが無い。アンソンについての記述全てに覗く階層意識と、それ自体を(恐らく)美しいと思っていない記述スタイルからして、何だかもう見ていられない気持ちになるのだ。

この短編について、彼は友人のヘミングウェイから「本当だ、確かに彼らはたくさんお金を持っているね」とからかわれるのだが、多分それは構図として私が深井君にからかわれるような、その類の感情なんだろうなと思う。ああいう構造のものは穢れと同じで、発生してしまった時点である種の期待であり、ある種の救いに近い形をしているとすら思う。

 

個人というものを出発点に考えていくと、我々は知らず知らずにひとつのタイプを創り上げてしまうことになる。一方タイプというところから考えていくと今度は何も創り出せない。たぶんそれは人というものがみんな見かけより異常であるせいだろう。

 

何か手の届かないものーーわかりやすい例で言うと、それは容姿だったり金銭だったり自己表現だったりする訳だけれど、そこに一本線を引いて特別な魅力を感じてしまうからこそ、それが「そうではなかった」時に、(つまり自分から地続きだという現実から逃れられなくなった時)他のものと同様にその事実は彼を打ちのめしてしまうのだろう。でもおそらく、上で引用した冒頭を見るに、フィッツジェラルド自身もその事柄を理性的には理解していて、だからこそこの話にはどうしようもなさがある。

 

私はどうしてもフィッツジェラルドに思い入れがあるから、この手の問題に対してストア派っぽい突っ込みを入れる事が酷に思えてしまうのだけれども。フィッツジェラルドの小説を読んで、その後ニューヨークに行ったのは良い経験だったかもしれない、と思ったりはしたよ。

 

 

まあだけど、しかしながら、結論から言えば「ニューヨークという街自体は概ね普通だった」と言うのが正直なところだったりする。短期間しか滞在できなかったと言うのも理由としてあるだろうし、フィッツジェラルドのアメリカがローリング・トウェンティーズで輝いて居たのに対して、現在はそんな状況でもないって言うのも同じように原因としてあるだろう。だけど多分、一番の原因は私の内面変化のタイミングの方にありそうだ。

 

初めての海外、それもアメリカ、しかもニューヨーク市と聞いて一体どれぐらいの衝撃を自分は受けるだろうかとワクワクしていたのだけれど、実は独我論から抜け出した直後に行った東京ほど衝撃は無かった。

衝撃というのは、渋谷スクランブル交差点でアダムスミスの見えざる手を幻視した時に感じたあのインパクトだ。その直後からよく用いる様になった表現に”価値尺度が無限に存在する”とか”氾濫する価値の只中で”とかがあるけれど、今回そこに変化はなく、むしろ「別に東京でもニューヨークでも似た様な言葉は連ねられそうだ」と思うなどして終わるにとどまった。良くも悪くも、感性としては少し鈍化したのかもしれない。「見慣れた」んだ多分、適応を祝おう。

 

そんなこんなでアメリカ観光自体は終始地味な感じだった。

やったことと言えば、用事終わりの僅かな時間、大学時代の同期の車でブルックリンを見に行った事が唯一観光らしい観光だろう。Driggs Aveという謎の古着屋街を見て回り、(好みの服が割とあるものの、日本人サイズの服がなかなか見当たらず、何も購入せずに終わった。界隈では有名なAmarcodeにも寄ったけど、こちらはちょっと手が出ない感じ。)最後にここ(Home - Knitting Factory)でライブを見て、その日の探索はお開きとなった。香りの良いウイスキーを飲んだような気がするけど、初めての海外で緊張していたのか、全然味を覚えていない。

 

心境の変化としては、今回の事で「既に世界にはなんでもあるし、どんな人もあらゆる制約から逃れる事は出来ない」ということのディテールが深く理解された気がする。自分に自明性が無い世界観、もしかしたらそれが、高度に発達したコミュニケーションの間で発生しているのかもしれない。だとしたら、人が多くを言語化しない理由は確定する。構造的に、人間は人間コンプレックスを感じるようにできていて、双方向に向けて「理解したい/されたい気持ち」と「理解できたら/されたら困る気持ち」の両方を同時に存在させているんだろう。それが冒頭に置いた、あの一連の引用の意味だ。

 

人間には、状況に対する対応として「何を酸っぱいブドウとするのか」という問が与えられる。複数ある美のコンセプトは最終的にその問いへ集約され、その徹底率で硬度が変化する。自己表現が上手い人達というのは、おそらくその部分をずっと磨いてきた人の事を指すのだろうな、と最近の自分は理解している。コミュニケーションにいくらかゲーム性を見出しつつある自分がおり、そのため他人の挙動に一喜一憂する事が少なくなった。

 

同時に「自分は何を酸っぱい葡萄とするのか」というところについて、時が来たら結論を出さなくてはいけないな、という事を心の端に留め置く。そして「どんな解を持った人たちと自分はうまくやっていくのだろうか」と未来に思いを馳せる。そんな旅だった

 

そんなこんなで、このブログは村上春樹のあとがきから言葉を引いて終わりにしようと思う。

そのように小説家としての僕は、スコット・フィッツジェラルドをひとつの規範・規準として見ている。自分の位置を見定めるための目印として。そしてある時にはため息をついたり、ある時には身をひきしめたりしている。小説家というものは程度の差こそあれ、心の中に一人くらい、そういう「自分のための小説家」を抱え込んでいるのである。

もちろん僕とフィッツジェラルドでは色んなことが全然違っている。

(中略)

でもフィッツジェラルドの小説は終始変らず僕を宿命的にひきつけるし、僕は飽きる事なく何度も何度もその小説を読み返している。不思議といえば不思議だけれど、もし小説に不思議というものがなかったら、誰が小説なんて読むんだろう?