attracting section

Good morning my dream.

シガーロスの感想

シガーロスのライブに行ったので感想。

最初、この機会をくれた友人へ手短にメールを書いて送ろうと思ったんだけど、感想が異様に長くなったのでブログにした。


さて、話をはじめよう。

前半は内向、後半はその性質を保ちながら外へ世界を迸らせるような構成。内から外に見せかけて、多分あゆみとしては逆で、私達は彼らの中を旅したのだと思う。

舞台の映像がすごくクリティカルだった。例えば、「整然とパースの取られたセットの上を光が伝い、緩急をつけて私達に放たれる」とか「複数のスクリーンで奥行きを取りながら、心象風景を空間として再生する」とか。

歩調と呼吸が整うのを待ちながら、優しく優しく手を引いてくれて、身体の輪郭を完全に無くしたところで激しい音楽が始まる。今まで見たどのライブより、対話の色が濃いように思った。間に言葉がないのにね。

運が良かったのか、ちょうど左右の反響が同じになるあたりの位置にいた。更に視界を遮るものもなく、正面にヨンシー。身体に対してまっすぐに振動が届く。

いくつか特に記憶に残ったものについて書きたい。

 

Á
旅の始まり。手を引かれて世界へ

初めて聞く曲。オーリー、ゲオルグ、ヨンシーの順に音が増え、最後はヨンシーの一番高い、透き通って硬度のある声に迎えられる

良い曲だ、気持ちが良い
また新しいアルバム出るのかな、楽しみだな


Ekki Múkk
ポツポツと灯る明かり、追走する旋律。「もう大丈夫だよ」と肩を叩かれて、さあ還ろうと促される感じ。オーリーのピアノが好きだ

最近覚えた音楽用語を使うとしたら、リバーブというんだろうか、空間に残る音の残滓が思っていたよりも濃く、それがまた世界を感じさせる。宇宙に放り出されたのではなく、極めて物質的な世界に沈み込んでいる最中なのだと、長く短く振れる残響から理解する。

音の伝達するところで私達は個人を失い、心臓を空間へ同期させてゆく。「ああ今まで、自分は何も感じられていなかったのだな」とわかる。これから名を持たぬ存在になれる事が嬉しい、持てる限りの感受性をすべて使って世界に触ろうという気持ちになる

言葉を知ってから意思に関係なく築き上げた牙城。そこを抜け出し、ふわりと身軽に。この体感を覚えておこう、多分私には必要になるものだ


Glósóli
あたたかみを感じさせる曲が続き、孤独がほどけてゆくのがわかる。どこまでも伸びるファルセットと、慎ましやかで端正なビート。方々から意識を集めて、増幅し、そして輪の外へ。エントロピーが大きくなってゆくのがわかる。

映像は故郷のものだろうか、センチメンタルな心象風景が続く。鈍色の波がスクリーンに広がり、風が頬を撫でる感触や潮の香りが脳内で再生される。わだつみのうた


E-Bow
弓を引いて鳴らすギターの音色と、深刻さを滲ませるドラムのコントラスト。滑空する鳥の曲だ、といつも思っていた曲だけど、背後の映像がまた違ったイメージをもたらす。心の柔らかいところを揺蕩い、最後にまた動き出す感じ。

Dauðalagið
オルグのベース、オーリーのドラム共に激しい。時々やってくる、なにか分からないものへの焦燥を思い出す。
隣の席のお兄さんが激しく泣き出したので、曲が終わってからハンカチをあげた。


Fljótavík
辛い日の終わりに必ず聞く曲。生で聴けるなんて感激。Dauðalagiðの後にFljótavíkが来ると、全部理解されている気になってしまう。

コミュニケーションで悩んで、このまま誰の事も理解できないしされないまま一人ぼっちで死ぬんだ、って肩に力が入っていたのがふっと抜けて、私も涙腺が崩壊した。

このまま終わりになれたら素敵なのに、と考える。


Varða
オーリーがベースを、ゲオルグがキーボードを弾き始めた。ゲオルグのピアノは男の人のピアノって感じだ。少しドキドキした。


確かこの辺りで休憩が入ったと思う。隣の席のお兄さんと目があったけど、私も彼も何も言わなかった。ここをそういう場所のまま居させてくれた彼に、私は逆に感謝したい。


Óveður
手が離れて背中を押された。荒野に取り残される。少し距離を置いて、ブラインドの向こうに彼らが立っている。

Sæglópur
この曲に一番近い日本語は暁降ちだと思う。色彩を持たない始発列車とか、目覚めゆく街の張り詰めた雑踏を思わせるピアノ中心の冒頭から、ギターの音とともに降り注ぐ色彩の遷移を見守る。カメラワークはミクロからマクロへ。個人から営みへ。

職業柄、セットの青い光が都市の通信網に感じられてしまう。世界に張り巡らされた気持ちの網目、私と世界の唯一触れあう場所、そこに吹く風、そこで鳴る祈り。無機質な手触りと名前のない温かみ。

まるで透明になれたみたいで涙が出た。掌で頬をそっと包み込まれたみたいな感触で幸せだった。死が私を迎えに来る時、こんな風なタッチで魂に触れてくれたら素敵だ


Ný Batterí
照明が激しく点滅。胸の辺りに急に冷たい手があたった時みたいな感触。SæglópurとNý Batteríの順番に善意を感じる。でないとその場に居られなかったと思った。

 

Festival
曲の途中に挟まる無言の時間、あの時間のことをずっと考えている。不思議な時間だった。異様に尖った自分の感受性が一気に内向して、言葉にならない集約と拡散を同時に体感した感じがした。帰宅して、タイトルを確認してまたドキリとする。

 


8月7日の日記にも書いたけど(http://beatset.hateblo.jp/entry/2017/08/07/203236)、あの辺りの時はシガーロスというか、ヨンシーの事で頭がいっぱいで、大変だった。頭がいっぱいなんだけど、分からないからかなしくなる。

ネットにある断片的な記事から随分前に3ピースになった事を知っていたので、(バンドの事は何もわからないなりに)どんな編曲になるんだろうと思っていた。でもそれは杞憂で、緻密に編まれ……とかなんとか書いてみたけど、楽器わからんので、譜面的な差異がわからない。わかりたいなあ、本当に、なにもわからないって悲しいことだ。

 

このライブで一番に得たのは、分かりたいという気持ちだった気がする。私はどうしても分かりたくなった。音楽のこと、それから、それを通して触れる、私やそこに集まる人々の心の温度。

 

 

性別についての近況2

最近女性らしい装いを心掛けていて、今日ついにふんわりした白いスカートを履いて出社した。結果すごく些細な自己嫌悪の数が増えて、ああ多分、自分の女性性が嫌というよりは、フェミニンなスタイルで出掛けた時、心に擦過傷が増えるから、そういう風に解釈していたんだなと分かる。

お洒落をすること、それ自体は楽しい。髪をセットして、自分にあう化粧をして、自分向きのカラーや形の洋服がスタイルとして形になると嬉しく感じる。ただ、それは絵としての整合性であり、動き始めると話は別になるみたい。なんか、女性らしく?振る舞う自分が許せてない。

許せてない、というと少し語弊があるかな、より許されない感じがするんだよね。声の高さ、誰かに話しかけること、ふわふわの茶髪、ヒラヒラのスカート、丸いフォルム、柔らかで華奢なカラーリング、それを選択する精神性、なんかこうコンプレックス持ちの少年バリの嫌悪感を発揮して来る。
粗方のトラウマは精算できたつもりでいたけど、外見は真っ先に自分から切り離した要素だったからかな、恐怖心が残っているみたい。

 

スカートで出社した帰り道、久しぶりに昔の事がフラッシュバックして感傷的になっていた。今から思えばそんな取り沙汰する必要を感じない、しょうもない話なんだけど。過去は変えられないから、認識の外に沈んでいたコンプレックスの塊をまたひとつ見つけて、「ああ君だったんだね」というような気持ち。

真っ黒いリクルートスーツ以外で初めて買ったスカートは、ずっと箪笥に仕舞われたままになっていたけれど、どうやら存外悪くない景色だったようで、仲の良い同期が褒めてくれたりした。

 

変えられない過去と違う未来を線で結ぶことは、せっかくもらった好意を踏みにじってしまうよくない行為だなあ、と思ったりする。不安定になっているメンタルに、「大丈夫だよ、彼らはあの人たちじゃないよ」と話しかける。

 

私は自分を良い物語にしたいんだと思う。低い自己肯定感とキツすぎる自己愛でグロテスクになってしまっている私と、そのグロテスクさをカウントせずにいてくれる友人達と、それを包括する一切合切に対する愛憎と。それらを全部スパイスにできる大円団を作りたいんだと思う。

 

だけど、なんかもうそれすらしんどいんだよね。もう、女性について考えたり調べたりしたけど、くたびれねこさんですよ。僕は僕だし、なんかもうチョット諦めムード。早く自分を忙しくして、こういう感情を見ないようにしたい。だって、結局やれないものは努力してもうまくいかないしな……

 

まあなんだ、さしあたり、今気になるのはやりたい振る舞いの実装方法の模索と、適切な睡眠スタイルぐらいはやろうかな。

 

外見と自己認識のアンバランスを正したい。コミュニケーションをどうやったら良いのかどんどんわからなくなっていくし、その事で頭がいっぱいになってその事ばかり話してしまうし。そういうの辞めたいな。

内面化しすぎている他者の視線を無視して、私が私を選択する事。人間関係の文脈で、そこに宿る間接的な優しさに気がつけたから。

 

これから来る2日間は自分の振る舞いを見直すチャンスかもしれない。私は私を選択しようと思う。

 


 

0821-0826 nullをだいじに

夏休みが明けて一週間がたちました。先週の一週間は猛烈に長かった気がする。仕事のある日に色々な感情が無い訳じゃ無いんだけど、仕事の話を書く必要があるからローカルに日記をつけています。

ただ、ここの密度はもう少し上げておきたいので、いくつか学んだことと考えたことを。

 

学んだこと

①睡眠時間を逆算した行動計画を立てる
最近の自分、どうやら意思決定のフローの中に寂しい感情が挟まって、優柔不断になっているみたい。優柔不断になった結果、自分のコンディションを考えて誘いを断る事が出来なくなっていて、結果的に誰にとっても良くない時間を過ごしてしまう事が数度あった。この営みは危険だぞ、寝不足と心労のコンボで仲の良い人に忙しい話をしてしまうし、仕事のミスを誘発しやすい。自己嫌悪で雁字搦めになる前に、ネガティヴな僕を作る構造は徹底的に排除しよう。

描いた通りに自分をコントロールすること。

 

nullをだいじに。計画にも心にも、関係性にもね。


②人と会った後に反省会をしない
これは今週、以前より微かにうまくできたと思う。時間を共有した後の感情を言語化しない。
心の中にベルを置くんだ、良くない言語化を始めたら即ベルを鳴らす。この繰り返し、これを強くイメージして、意識的にやる。ベルを持ち歩いても良い。私はsound touchというアプリをスマホに入れていて、真ん中の列の上から4つ目にあるレジみたいなやつを鳴らしたりする。

 

微妙にはらたつ話だけど、ヒントはIDEOから。(参考:‪https://www.lifehacker.jp/2014/04/140422ideo.html )‬

‪この習慣に関しては、もう少し試行錯誤が必要。うまくいけばレビューします。‬


‪③周囲に意識を張る‬
‪一緒に通勤している同僚が教えてくれた習慣。世界を観察する事。非言語コミュニケーションは駅構内でも観測できるという話。それはプロファイル的な話ではなくて、リアルタイムの気分や行動の話。‬

スマホを閉じて、頭を落ち着ける。人の動作にもっと意識を向けてみます。気分を感じ取れるようになるぞ‬

 

‪考えた事‬


‪①分からないものを分からないままにスタックする‬
‪ここ数日、感情のせいで飲み会に積極的に出かけ、雑なコミュニケーションをして落ち込む事が無かった訳じゃない。とはいえ、まあそれも悪いことばかりではなくて、実は得た事もあった。‬
‪それは、どうやら悩んでいるのは私だけじゃなさそうだという事。それがそのままある事に対してそこまで嫌な気持ちになっていないらしい事を知った。‬
‪カウンセラーに完璧主義者(と便宜的に呼んでいる)の弊害を説明された時にはあまりピンと来なかったけど、それが実感されたというか、線で結ばった感じ。‬

‪②CADを用いた設計作業、ほぼコーディング‬

③自己肯定感の低さを他人の肯定で埋めようとすることほど醜悪な事って無いなあ、そういう最悪な事を辞めたい

④同じ事何回も言ってしまう、恥ずかしいので辞めたい

 

 今週のログ

 

 

f:id:beatset:20170827125042j:image

夏休みの大学、私の城

ブリューゲル展の感想

f:id:beatset:20170818094023j:image

 

バベルの塔展を見たので感想。

ブリューゲルメインみたいだけれど、他にもフランドル絵画がたくさん来日していた。

 

16世紀フランス(≒フランドル=ネーデルランド)といえば、戦争と飢饉宗教改革の時代。プロテスタントカトリックが戦ってオランダができた。この時代の物語としてはフランダースの犬があり、この時代の科学としてはメルカトル図法がある。そういうイメージ。

 

だから同じ時代でもイタリアと比較すると、一見病んでるっぽい絵が並ぶ。解説は「ナントカはナントカだったので、その象徴としてナントカは必ずナントカとして描かれる」みたいな、文脈を共有出来ないものが見ると気がつかないような比喩(つまり暗喩)の説明のオンパレード。つまりこれは、世界を提示すれば同じ結論(感情)にたどり着く、という世界観の元世界を要素に抽象化した作品なのだな、とわかる。

まあだから、今回のメインのひとつにヒエロニムス・ボスの放浪者などがあり、その説明(靴が左右違う、裏の建物は娼館etc)を読んで生々しい理解が降りてくるかと言われたらそんなことはなかった。この絵は誰かの救いや慰めになってきた絵なんだろう、だけれども、私の救いになるものではないのだな、というのがわかる。

 

ブリューゲルはボスが有名な時代に後から参入してきたらしく、かなり強烈な影響を受けて絵を描いているみたいだった。しかし、似たような形式の作者不明の作品と入り混じるようにして掛けてあるブリューゲルの作品は、彼の個性を際立たせていた。

 

この時代のこの地域(つまりフランドル絵画)の形式として、一枚の絵に必ず原題があるというのがある。そのため、その制約のない他の絵画と異なり、画家の編んだ構造と原題が必ず対応している。従って画家は、腕を評価される時に抽象化の巧みさを問われている。

そんな中で発揮される彼の個性、一言で表現するなら「わかりやすさ」だと思う。

 

ブリューゲルの絵はわかりやすい。わかりやすいとひとくちに言っても色々あると思うけど、多分彼の絵のわかりやすさは、役者を揃え、それを画面内にシンプルに配置する事に由来するのだと思う。感情の表現としての絵画ではなく、この意図を伝えるにはどういう構造にしようか、という意識が見える。自分と絵を切り分ける事、そういうコンセプトをブレさせないことは絵を仕事にしている人間にとって、すごい事だなと思う。

昔読んだ本の中に「ハッカーと画家」という本があって、その表紙にブリューゲルバベルの塔が選ばれていたけれど、わかる気がする。ドレでもキャルヒャーでもなく、ブリューゲルのバベル。作者か編者かわからないけれど、センスが良い人の存在を感じる。

 

ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち

ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち

 

  

さて、バベルの塔の話をしよう。

来日していたのはブリューゲルのバベルのうち小バベルと呼ばれる小さい方の絵。板の上に細かい筆致で書き込みが行われている。(なんと、この一枚の絵の上に1400人の人が居るそうだ)

 

小バベルは600×750 [mm]と小さく、その画面の中に納められたシンプルな構図と圧倒的なディテールが、観るものに与える視点は神さまの視点のように思う。それはつまり、5世紀後の文脈を持たぬ我々まで伝わるシンプルさってことだ。

 

バベルの塔の物語は、ノアの箱舟の物語と同等程度の認知度があると思う。どちらも有名な話だ。でも一つ興味深いポイントがあって、実は原典にあるノアの箱船は4章からなる長編なのに対して、バベルの塔の記述は1章ぶんしかない短い説話なのだ。同じように短い説話は、他にも最初の罪、カインとアベル、信仰などがあったはずだけれども、タイトルを聞いてパッと思い描くものが同じイメージの話はどれぐらいあるだろう。これが視覚イメージの力なのかなと思う。だとしたら少し、皮肉な話ね。

 

そうそう、調べていたらブラッドピット主演のバベルって映画があるらしい。少し気になったので、そのうち気が向けば見るかも?

0816、同窓会へ行く

朝は昨日のwrite upをひたすら漁ってはコードを試したりツールを触ったりしていて、昼はシンセもどきの回路をいじりました。オシロスコープが欲しい、2300円のキットの精度じゃちょっと疑わしいデータしか取れない。特に縦軸。

 

夕方からは大学のプチ同窓会に参加しました。楽しく談笑して、話の流れで全員うちに来て飲み明かしていった。

 

うちの研究室の連中は軒並みコミュニケーション能力が欠除している感じがして、色々考え始めた今そこに混ざると、色々アレな気持ちになる。だけど、多分誰一人としてそれを気にするわけではなくそこにいて、さらに私のコミュニケーション能力の欠除も個性としてそのまま扱ってくれている。

 

私は今、異様に人間が許せないようになっているんだな、ということを感じます。どうやったらこれが治るのかな、とかほんのり考えますが、正直疲れ過ぎていてあまり頭が回らない。もしかしたら、体力があれば違うのかもしれない。

 

翌日の朝、起きたら無人で、数人分の置き手紙だけが残されていました。謎の余韻に浸りながら、朝ごはんを食べています。

0815、空白の日

空白というか、あるマニアックな感じのイベントに出ました。糖分を定期的に摂取しながら、延々と考えを巡らせた日。

 

結果として、私はほとんど活躍できなかった。

これに関しては、これまで過ごしてきた4ヶ月がそのための期間じゃなかったってのもあって、わかってたと言えばわかっていたことだけど。それでも一つの時代が終わったんだな、と感情として実感を持った。良くも悪くも、あらゆる意味で自分自身は「変わってきて」いる。

こういう短期間で変化が起こるところが言葉で生きている人間の醍醐味という感じがするけれど、同時に恐ろしいなと思うのは、その変化が片道切符だということだよね。あたりまえだけど自分自身の認知の向きにCTRL+Zは使えない。

 

わたしは時々、この営みの果てに廃人となった自分を想像してしまうよ。わたしはこれから、どうなってしまうのだろう。

 

……ああでも、気持ちの向くままに集中できる良い時間だった。優しく、穏やかで、救われている感じ

 

0814、九州4日目

比較的天候に恵まれていた今回の旅行ですが、観光最終日(明日は戦いなので観光ではない)にはついに雨がふりました。車種の関係で走行中に激しめの雨音が鳴る。こんな日はいつもの無機質な音楽をかける。雨音に混じって響く一定のビートが、心臓の代わりに機能してくれている気がしてくる。安定しない感情の代わり

 

たぶん、これが「さびしい」なんだろうなと思う。誰かと話したいって意味の「さみしい」ではなくて、誰かと理解しあいたいって意味の「さみしい」だ。ソリプシズム的な世界観から脱出した瞬間から始まったこの乾燥が、今日も僕を苛み続けているだけの話。わかりあうこと、宝くじを買うことと、宝くじが当選することの間にある関係性とよく似た構造をしている。

僕はわかりあいたいんだと思う? それとも、わかられたら困るんだと思う?

 

【観光記録】