attracting section

Good morning my dream.

0903、アウトライン

自分の輪郭というか、形式というか。人には好きなものと嫌いなものがあって、嫌いなものをその通りに拒絶できるという事が、イコール自分がある事の証のように、最近の自分には見えている。

つまり、現状自分の中には正しくあれと言う圧力に加え、ある特定領域において部分的に正しさを否定しろ、というコマンドがながれており……それは違う場所に同時に存在しろという命令に近く、結果、構造的に矛盾した命令に晒されつづけている現状がある。

 

僕の身の回りの人はどちらかと言えば個性的とされる人が多い。個性のコントラストが否定と肯定のコントラストとして観測されている今の自分には、その景色がいささか眩しく見えているのかもしれない。なんというか僕は、彼らが何かを否定していると「ほらみろコレが正解なんだよ」みたいな言葉を脳内で立ち上げている。こういう感情をもしかしたら嫉妬と呼ぶのかもしれないけれど。

 

適応したいと感じる心が、普通になりたいとずっと言っているけれど、従来の普通は倫理的に生きている事だし、最近気づいた普通は自分のアウトラインを鮮明にする事だし、同じ普通という言葉でも中身の向きはかなり違うんだよね。

 

だから現状ある問題は、どの普通に適応して生きて行くのかというコンセプトの問題なんだ。結局そこがグラグラしているから私は全ての状況で意思決定を迷ってる。

 

コレは正しさの構造的正しくなさに起因していて、なんというか完璧な正しさは知らないでいる事でしか達成できない構造をしているので、私は強烈な自己嫌悪によって自分の感受性をいくつかに分離し、私の範囲を狭める事でその正しさに対応してきた。

 

だから当然、ないことになっていても私の中に良くない感情はあって。言語によって感情の評価と再構築をしているから未分化な感覚を推奨されない感情に当てはめることもできて。……回りくどい言い方を辞めて端的に書くと、私は結構冷酷な人間で、そんな自分を絶対に許せないのが私の異常性の全てだから、私の根源はそこにあるんだけれど。

 

試しに良くない感情にも気持ちを割り当て出してから、結構大きい迷いが生じている。

 

世界に対して「なんでも良いよ」、自分に対して「ただしくやろう」、それ以外の感情は構造として適宜処理してゆく営み、これからもこれを続けて行くべきか否かで迷っている。

 

私はどうなるのが良いかな

私の心はどうしたいかな 

 

まだ結論を出す余裕がないな