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Good morning my dream.

性別についての近況

 

自分が女性である、つまり、「人間というカテゴリーの下に男性とか女性とか更に細かいカテゴリーがあって、自分はそのうちの女性の方に属している」ということの片鱗をきちんと感じ始めたのは、おそらくハタチとかそこら辺のことだったように思う。

 

女性と男性というカテゴリの違いを気にし始めて生きてみると、案外そのカテゴリは世界の機微に浸透している事がわかった。服装と髪型、話し方とその内容、身体の動かし方や手入れの仕方、食べ物飲み物音楽小説の好みエトセトラ、そういう人間の個性が絡む部分まで性別というカテゴリーは浸透している。

 

ここからは推測というか、事実ではなく意見になるんだけれども。他の人と世界について話すときに、性別というところに問題が収束しているように話す人が多かった事も、そこでようやくピンときた。

人間のパーソナリティにまつわる問題、それは自己実現だったりルッキズムに対する抵抗感だったり色々だけど、そういういろんな形をした問題と性別というカテゴリは、厳密には形式が異なるものの、要素としては常にとても近くに配置されている。嫌な事があって気にしたときによく見かける奴だから、あたかも性別という要素が諸悪の根源のように感じてしまうんじゃないか。

 

そこまで考えて改めて自分の状況を眺めたときに、確かに「自分が女性である事が嫌だ」というコメントを出すと、現状をよく説明するんじゃないかと思う程度には不具合のそばに性別という要素がある事がわかった。……同時に、なんだか不意打ちで自分の世界への興味の無さを見せつけられた感じがして別の凹みが発生したりもしたけど。

 

振り返れば、線でつながってなかっただけで、個別に性別に対する不適合感は感じていたっぽい。例えば、女性的なロールプレイを求められるとストレスを感じるとか、本当は一人称に僕を使いたいとか、自分の好みについて言及したときに「珍しいね」的な感じでスポットライトを当てられると若干つらい気持ちになるとか、そういうナイーブな側面を普通は「めんどくさいな」とする事とか。あげだしたらキリがないそういうディテールに心を擦り下ろされている感じがする。

 

かといって、フェミニズムについて調べてみたりしたけれど(その過程で女性に限らずいろんな意見がある事がわかったけど)やっぱりどれもトゲトゲしていてあんまり「わかるよ!」的な気持ちになれるものも無かった。

 

当然、女性は勉強をするなとか社会システムとして人権が保障されてない時代のフェミニズムには敬意を持ったけど、それ以後の世界のフェミニズムに関してはモノによっては若干首を捻りたくなる主張なんかもあったりして、イマイチ諸手を上げた賛成ができない。どうも私は、人はシステムによって救われる方向に努力するべきで、気持ちとか思いやりとかそういう個人の力によって救われる方向に行くべきではないのでは、的な発想を持っているらしく、みんなの認識をかえようとする方向の主張は好みではないみたいだった。人はそれぞれ文脈が違うしね。(みんなの認識を変えたい派の人から言わせれば、システムとみんなの認識の関係性は卵が先か鶏かみたいな関係だって事なんだろうけども。それでも自分に近しいミクロな領域で区切った話なら、私みたいな自己評価が低くて自分への愛着が強いタイプの人間がこういう事を言い始めるのは割と素直な流れだと思ったりもする)

 

とかなんとか考えた結果、私はたぶん自分が女性であるということ自体が問題なのではなくて、女性として何かを強要されることが嫌なんだろうなあという気がした。なんというか女性とかそういうのじゃなくて、ものすごく素朴に、生きている一匹のヒトとして扱われたい、んだよね。たぶん。……こんな感じで伝わるかな、微妙な気がするけど、そんなふうに考えてた。

 

それで、長くなったけどここまでが前置き。ここからが本当に書きたかったものの話なんだけど。

 

私は髪を短くして男物の服を着る生活をやめた。理由は色々あるけど省く。

 

そんな中で、”ただのヒト”でありたいとか私が考えていたところで、まあ現実問題として、私は女性なんだよね、ってことだった。

 

 何が言いたいかというと、”ただのヒト”としてどうやって生きたら居心地がいいかなとか内側で考えて物事の選択をしていても、外側から見ると”女性である◯さん”の選択として解釈されてしまう、ということを言いたい。

というのも、女性というカテゴリーに合わせて選択を行い始めると、ものすごく生活が楽になった。話し相手に困らなくなったし、悩みを打ち明けたり打ち明けられたりする機会も発生して精神を病みにくくなった気もする。

 

これで恋愛対象が同性とかなら(語弊を招きかねない発言だけど)女性であることに抗ってみる決意ができたかもしれないけれど、私は多分ヘテロセクシュアルだし。贅沢な悩みだって怒られるかもしれないけれど、ものすごく中途半端な感傷だけが胸の内に積もってゆく。

思い悩んでいても容赦なく時間は進むから、女性というカテゴリに自分を当てはめる生活は、社会人になってからますます加速している。というか、今まで女性というカテゴリーに自分を当てはめる努力をしてこなかったので、やらなくちゃいけないこと、覚えなくちゃいけないことが無限にある。

 

 結果、最近の自分はまた自己評価が最悪な感じになってる。女性というカテゴリーに本気で適応しようとすると、なんというか容姿の問題は本気で深刻になってくるし、他にも振る舞いとか言動とか新たに発生する問題がたくさんある。

 まあでも、自分の外側にある問題と内側にある問題じゃ解決のし辛さに大きな差がある訳で。我慢することによって与えられる市民権に大きなメリットがあるのも確かなんだよね……。

 

果たして自分の心が折れるのが先か、適応が完了して感覚が麻痺するのが先か。今後どうなるかわからないけど、少なくとも女性カテゴリへの適応がいい感じになってきた頃に自己評価がどんな感じになるのか、今の自分は注目している。